船頭と軍国少年

船着場はいつごろまでありましたか?

護岸されるまであったと思うよ。だだ、川原にあった魚市場が引っ越してからは船はほとんどこなくなったね。昭和40年少し前までかね。

魚市場は憶えています。私が小学校低学年ころまであったと思います。

昭和13年ごろまでは帆掛舟がかよっていたね。下っていくときは楽やったけど、上ってくるときは大変やった。風もそう都合よく吹いてくれないから、両岸からおっかちゃんが玉の汗流して綱で引っ張って、船頭さんが竿で舵をとりながら上ってきた。しかし、あのころの水はきれいだったんだと思うよ。船頭さんがおおきな桶のような弁当を食べ終わると、それで川の水をくんで飲んどったなあ。子供ながらにびっくりして見とった。

船頭さんの弁当が大きいのには訳がある。遭難した時に備えて、三食ほど入れとるそうや。舟がひっくり返った時には桶を浮きがわりにするためだと聞いている。

一同、へ〜なるほど

昭和13年以降だと思う、焼き玉エンジンの船が出始めたのは。小学生のころ、焼き玉エンジンの船に乗って川を下って伏木の港へ軍艦を見に行ったことがある。うれしくて前の晩は眠れんかった。今から思うと軍国少年やったね。そんな教育の時代やった。

合流して小矢部川へはいったら、大きくて流れも速くて怖かったのを覚えている。

明治期の千保川船着場
明治終わり頃の船着場(開町370年・市制90周年・記念写真集(高岡市発行)より)

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